警察特殊部隊での詠春拳採用について(海外事例紹介)
ドイツ特殊部隊SEK:詠春拳採用の歴史
詠春拳はなぜ警察・特殊部隊の訓練に取り入れられたのか
詠春拳、WingTsun(ヨーロッパでの詠春拳の総称)は中国武術の一つとして海外では広く知られています。
しかし、ドイツにおけるWingTsunの歴史を調べると、一般的な武道・格闘技としての発展だけではなく、警察や特殊部隊の近接対応・制圧技術との関係という、もう一つの歴史が見えてきます。
その代表的な事例の一つが、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州(NRW)の警察特殊部隊、**SEK(Spezialeinsatzkommando)**と、詠春拳指導者Salih Avci氏による長年の協力関係です。
WTEO(Salih Avciの組織)の公式資料によれば、Salih Avci氏は1992年以降、NRWのSEKに対して「Sicherungs- und Eingriffstechniken(安全確保・介入/制圧技術)」を指導し、その経験を基礎として、WingTsunとEscrima(フィリピン武器術)を警察・特殊部隊の実務に適応させたAvci Systemが発展していきました。
1.1992年、Göppingenから始まった
Salih Avci氏とドイツ警察特殊部隊との関係を語るうえで、一つの転機となるのが1992年のGöppingen(ゲッピンゲン)での講習会です。
WTEOの資料によれば、Avci氏は当時、別の組織で上級指導者として活動しており、この講習会で警察関係者に詠春拳(WingTsun)を紹介しました。
その後、NRWのSEK関係者から再び指導を依頼され、長期的な協力関係へと発展したとされています。
この時点で重要なのは、単に「格闘技を教えた」ということではありません。
警察の実務では、競技のように相手を倒すことが目的ではなく、
相手を制御すること。
必要以上の力を使わないこと。
自分自身の安全を確保すること。
周囲の第三者への危険を抑えること。
こうした要求に対応する必要があります。
WingTsunが警察・特殊部隊の訓練環境と接点を持った背景には、このような実務上の要求がありました。
2.SEKとは何か
SEKは、ドイツ各州の警察に設置されている特殊部隊です。
人質事件、武装した容疑者への対応、重大な危険を伴う逮捕など、通常の警察活動では対応が困難な事案に対応します。
そのため、SEKの近接訓練では単純な「格闘能力」だけではなく、
状況判断
自己防護
距離の管理
接触時の身体操作
相手の制御
チームでの行動
必要な範囲での力の使用
など、現場を想定した総合的な能力が求められます。
Avci Systemは、こうした要求に合わせて発展していったシステムとして位置づけられています。WTEOは、Avci Systemを警察、司法、警備関係者、特殊部隊などの要求に合わせた詠春拳システムと説明しています。
3.WingTsunから「Avci System」へ
ここで重要なのが、Avci WingTsunとAvci Systemを同じものとして考えないことです。
Avci Systemは、WTEOの説明によれば、
Avci WingTsun(詠春拳)
+
Avci Escrima(フィリピン武器術)
+
SEKとの実務経験
を基礎として発展したシステムです。
その内容には、
武器を使用しない自己防護
武器が関係する状況への対応
接近・制圧技術
身体拘束
逮捕時の技術
実務における戦術的対応
などが含まれるとされています。
さらに重要なのは、WTEOが**「警察・特殊部隊向けのプログラムは一般人のWingTsunと同一ではない」**と説明していることです。
対象となる組織や職務によって、必要とされる技術や訓練内容が異なるためです。
4.SEKでの経験がシステムを変えていった
Avci Systemの特徴の一つは、完成された技術を現場に持ち込んだだけではなく、現場での経験をもとに技術そのものを変化させていった点にあります。
WTEOは、SEKでの実務経験を通じて、WingTsun・Escrimaの技術を警察・特殊部隊の要求に合わせて発展させたと説明しています。
つまり、
技術を現場に合わせる。
だけではなく、
現場から得られたフィードバックによって技術を変える。
という考え方です。
これは武術を「型」だけで考えるのではなく、実際の人間、実際の環境、実際の制約の中で検証するという意味で、非常に興味深い考え方です。
5.「強く倒す」より「必要最小限の制御」
Avci SystemについてWTEOが強調している特徴の一つが、いわゆる**「sanfte Mittel(穏当な手段)」**です。
警察活動では、相手を倒すこと自体が目的ではないため、
必要な状況では相手を制御しなければなりませんが、同時に、警察官自身や相手、周囲の人間への不要な危険を可能な限り抑えることも重要になります。
WTEOはAvci Systemについて、機能性や効率性だけでなく、関係者双方の負傷を減らすこと、そして比例原則(Verhältnismäßigkeit)を維持することを重視していると説明しています。
ここは、一般的な「格闘技」と警察・警備のための身体技術を分けて考える重要なポイントです。
6.SEKから一般警察へ
Avci Systemの歴史でもう一つ重要なのが、SEKでの経験が一般警察の訓練へ展開されたことです。
WTEO側の資料によれば、2002年、NRW州内務省は、SEKで実務経験を積んだ介入・制圧技術を、州全体の警察官の訓練にも導入する方針を決定しました。
資料では、対象は約35,000人の警察官とされています。
ただし、ここで重要なのは、
SEKの技術をそのまま一般警察に移植したわけではない
ということです。
WTEOの資料では、SEKで使用される技術は一般的な警察の日常業務とは異なるため、警察特有の状況に合わせて再構成されたと説明されています。
この考え方は、警察・軍隊・警備会社などの訓練を考える際にも重要です。
7.警察のための「システム」として
WTEOの資料では、警察向けの技術は個々の「必殺技」の集まりではなく、一連の状況に対応するシステムとして構成されたと説明されています。
訓練要素として、
防護姿勢
接近
接触
コントロール
解放技術
制圧・逮捕
状況に応じた身体操作
などが挙げられています。
これは非常に重要な考え方です。
現場では、
「この技を使えば解決する」
という単純な状況ばかりではありません。
相手との距離、姿勢、環境、人数、周囲の人間、相手の抵抗などによって状況は変化します。
そこで必要になるのが、技の暗記ではなく、状況に応じて身体を操作するための原理と判断です。
8.もう一つの歴史WingTsunとFBI HRT
ドイツのWingTsun史を調べると、アメリカのFBI Hostage Rescue Team(HRT)との接点も確認できます。
EWTO(ヨーロッパ詠春拳協会)の資料には、1992年1月13日から17日にドイツ・Göppingenで開催された武器を使用しない護身術の講習会に、FBIのSpecial Agents Douglas R. Kane氏とMichael R. Maurer氏が参加した記録があります。
資料には、講習後、WingTsunについて、法執行機関における過剰な力の使用を避けながら対象者を制御するための技術との接点が評価されたことが記されています。
ここで注目したいのは、WingTsunが単なる「打撃技術」として評価されたわけではないという点です。
近距離で相手をコントロールする。
必要以上の力を使わない。
相手との接触から状況を把握する。
こうした考え方が、法執行機関の訓練上の課題と接点を持ったことが分かります。
9.エミン・ボーズテペ師父と警察・軍関係者への指導
エブマス創始者エミン・ボーズテペ師父もまた、EWTO時代から警察・軍関係者への指導に携わった人物です。
今回掲載する歴史資料には、当時のAWTO(アメリカ詠春拳協会) Chief Instructorとしてのプロフィールとともに、
FBI Hostage Rescue Team
および
U.S. Marine Corps 4th Recon Battalion
への指導歴が記載されています。
この資料は、現在のEBMASがどのような背景から生まれたのかを理解するうえで興味深い歴史資料です。
また、現在のEBMASは、Wing TzunとLatosa Escrimaを中心とする武術体系として活動しています。EBMASの公式サイトでも、2026年現在、Wing TzunとLatosa Escrimaを主要なカリキュラムとして紹介しています。
10.EWTOからEBMASへ
大師父エミン・ボーズテペの歴史を考えると、現在のEBMASは突然生まれたものではありません。
その背景には、
EWTOでのWingTsun修行
↓
国際的な指導活動
↓
警察・軍関係者との交流
↓
実戦的な身体技術の研究
↓
EBMAS設立
という長い流れがあります。
一方、Salih Avci氏の系譜では、
WingTsun
↓
1992年 Göppingen
↓
NRW SEKとの協力
↓
警察・特殊部隊向けの制圧・介入技術
↓
Avci System
という流れを見ることができます。
この二つの歴史は、1990年代のドイツWingTsunが、単なる武道教育だけではなく、実際の現場で必要とされる身体技術を研究する方向へ広がっていったことを考えるうえで重要です。
11.なぜWingTsunが近接対応の研究対象になったのか
では、なぜWingTsunだったのでしょうか。
一つの答えとして考えられるのが、その身体構造です。
中心線
身体の中心と相手との位置関係を意識する。
近距離
相手との距離が非常に近い状況でも身体を操作する。
接触
視覚だけではなく、相手との接触から情報を得る。
経済性
必要以上に大きな動作を使わない。
適応性
決められた動作だけではなく、相手の反応に応じて変化する。
こうした要素は、狭い空間や突然の接触など、一般的な競技とは異なる環境を考える際に研究対象となり得ます。
12.「特殊部隊が使っているから強い」ではない
ここは、私たちエブマス北海道が特に大切にしたい部分です。
特殊部隊が学んでいるから、詠春拳は優れている。
そのように単純化することはできません。
重要なのは、
なぜ特殊部隊や警察が、その技術を必要としたのか。
という点です。
特殊な現場では、競技とは異なる制約があります。
相手を傷つけることだけが目的ではない。
自分自身を守らなければならない。
周囲の人間を守らなければならない。
必要な場合には相手を制御しなければならない。
そして、状況に応じて適切な判断をしなければならない。
このような現場の要求と、詠春拳の身体理論との接点を研究することに、私たちは大きな意味があると考えています。
13.日本の警察・自衛隊・警備の現場を考える
ドイツと日本では、法律、組織、装備、運用、訓練制度が異なります。
したがって、
「ドイツで使われているシステムを、そのまま日本へ導入すればよい」
という話ではありません。
むしろ重要なのは、
海外の現場では、近接対応・自己防護・制圧・拘束という問題をどのように身体教育へ落とし込んできたのか。
という点です。
ドイツのSEKとWingTsunの歴史は、その一つの事例として見ることができます。
日本においても、警察官、自衛官、警備員など、職務上、危険な状況に遭遇する可能性がある人々には、それぞれの職務と法的枠組みに適合した身体訓練が必要です。
私たちは、武術を単なる「強さ」の追求としてではなく、安全・身体操作・危険回避・状況対応を考えるための身体教育として捉えています。
15.エブマス北海道が目指すもの武術を、現場から考える。
エブマス北海道では、詠春拳の技術だけを教えるのではなく、
なぜこの動きをするのか。
なぜこの距離なのか。
なぜこの身体操作が必要なのか。
という原理を大切にしています。
武術は、技の名前を覚えるだけでは完成しません。
身体で理解し、相手との関係の中で検証し、状況に応じて適応できるようになること。
それが、実践的な身体教育につながります。
16.警察・自衛隊・警備関係者の皆様へ
エブマス北海道では、ドイツにおける詠春拳と警察・特殊部隊との歴史や、Avci Systemなどの事例を研究しながら、近接状況における身体操作、自己防護、危険回避、身体コントロールについて研究・指導しています。
私たちは、海外の特殊部隊で使用されているという肩書きを売りにするのではなく、
「現場では何が必要なのか」
という視点から武術を考えています。
警察・自衛隊・警備・危機管理など、専門的な身体訓練に関心をお持ちの方との情報交換・研究交流も歓迎しています。
エブマス北海道インストラクター草彅 豊
参考資料・歴史資料
本ページの作成にあたっては、以下の公開資料を参考にしています。
Avci SystemとNRWのSEKとの協力、システムの目的・構成について。
1992年Göppingenでの講習、NRW SEKとの長期的な協力、1995年・2002年の記録について。
2002年のNRW州警察への展開と、警察向け技術の考え方について。
1992年GöppingenでのFBI HRT関係者の講習記録について。
現在のEBMASおよびWing Tzun / Latosa Escrimaについて。
