ブログ/トピックス
世のならわし
こんにちは。
また、興味深い文章をみつけたのでご紹介いたします。
幸せや世のならわしを真に理解することが我々の目的である場合、我々の目指す世界観とはならない。我々は、分解したり過度に分析したりしてはならない。
ただ、自分自身を経験に大して開き、生の現実がそれぞれの動き、思考、活動、及び瞬間の経験において表現される導管として役立たなくてはならない。
現代の科学によれば、経験の基本的な構造単位は、伝統的な意味での物質ではなく、むしろ確率であり、エネルギーの動的で相互関係のあるパターンとなる。
究極的に見れば、我々の世界は波や粒子で構成されているのではなく、その中間的な何かである。
詠春拳の哲学
こんにちは
今回は、ある詠春拳のマスターが、詠春拳の哲学について語った文章を紹介いたします。
直訳ですので少し日本語として解りにくいところもあると思いますが、少しでも詠春拳についての理解がふかまれば幸いです。
【詠春拳の哲学】
詠春拳の根底にある哲学は、あなたの人生をコントロールし、あなたにぴったりの決断をすることです。詠春拳は格闘技ですが、それだけではありません。
その実践者は、うまくいけば、彼らの人生のほんの一部だけを戦いに費やすでしょう。したがって、戦闘で使用されるのと同じ概念と原則を使用して、あなたの人生の他の非戦闘領域を改善できることが重要です。それぞれの戦闘原理は哲学的に解釈することもできます。
偉大な戦闘能力の発達は、怒りや憎しみとして現れることが多い恐れを克服することによって、私たち一人一人に親切で思いやりのある、愛情深い能力を与えるはずです。
真に有能な戦士は自慢ではありません。
真に安全な人は、自分の体力で他の人を感動させる必要がなく、他の人からの承認の必要もありません。彼または彼女は、優しさのために弱いと考えられることを恐れることなく、理解し、受け入れ、そして親切にすることができます。
哲学の背後にある理由は、あなた方一人一人が私たち全員が持っている内なる力を利用するのを助け、あなた方があなた自身の人生をコントロールし責任を負うのを助けることです。
それは、ポジティブなエネルギーを使用し、ポジティブな性質の目標を達成することが、ネガティブな思考や行動よりもはるかに強力であることを認識するのに役立つように設計されています。
私たちの最悪の敵はしばしば私たち自身です。自分の中を見て、恐怖と不安の素を克服してください。そうすれば、より幸せな人生への道を見つけることができます。
戦いで何人の人を倒しても、他人に危害を加えることに永続的な幸福はありません。有能な戦闘スキルは重要ですが、危険なときに自分自身または愛する人を保護するためにのみ使用する必要があります。
あなたは賢くあなたの戦いを選ばなければなりません。あなたの戦闘スキルは悟りへの触媒となるはずです。あなたが個性と自信の強さを得るのを助けることによって、あなたのスキルはあなたに安心を与え、それによって不安を取り除き、あなたに平和で他の人と調和する能力を与えるはずです。
いかがでしたでしょうか?
詠春拳は、格闘技術ではあるが、それはたんに敵と戦うのではなく、調和する事にある。
その戦闘概念と原則は、そのまま貴方の人生に適応できると語っています。
ではまた👋
エブマス名古屋セミナー
★詠春拳~運動·体力に自信がなくてもできる護身術一日講座★
2022年エブマス名古屋は、皆様に詠春拳を体験し広く理解していただくために一般の方を対象とした護身術講座やワークショップを年に数回開催してまいります。
※第一回講座のご案内です。
【詠春拳~運動·体力に自信がなくてもできる護身術一日講座】
【日時】2022年5月7日(土)13:00~15:00
【場所】リフレクトスタジオ大須若宮大通店dst5
【受講料】5,000円
【講師】エブマス名古屋インストラクター草彅豊
【内容】
·護身術のベースとなる詠春拳の説明と基本技
·力を使わずに掴まれた手をはずす知識
·抱きつかれたら、突き飛ばされたら?
·殴りかかられた時の対処術等
※武術や格闘技やりたいけど…ガンガン殴り合うのは…ちょっと✋😅という方や女性の方に適したセミナーです
※質問等ございましたらお気軽にお問い合わせください
ご参加お待ちしております♪
今年も一年ありがとうございました。
今年も一年沢山の方に詠春拳を体験、見学に来ていただきました。
練習を継続している方、練習を断念された方共にお礼を申し上げ感謝致します。
また来年も沢山の方に詠春拳をとおしてお会いできるようエブマス名古屋は、努力してまいります。
皆様にとって健康で希望にみちたよい年をお迎えなりますように。
今年も一年ありがとうございました。
I really appreciate it.
Ebmas Nagoya Instructor. Yutaka kusanagi
戦わずに勝つ
戦わずに勝つと言えば「孫子の兵法」を思い浮かべる方が多いでしょう。
「100回戦って100回勝ったとしても、それは最善の策ではない。戦わずに敵を屈服させることこそ、最善の策である。」
この教えは、戦をとうして国を発展させる最善の法を説いたものですね。現代では、会社や企業が自社の戦略として用いる事が多いと聞いています。
老子も戦わずに勝つを意味することを言っています。
それが「不争」という考え方です。この言葉を日本語にすると「争わないこと」であり、戦わない人こそが理想的な人間であり徳のある人物という考え方です。
具体的にこの考え方を体現している言葉が「善く敵に勝つ者は与にせず」であり、これは敵に勝つことがうまい人ほど戦わないでも勝てるという意味になります。
日本の武士でこれを体現したのが塚原卜伝の「無手勝流」のエピソードです。
塚原卜伝が諸国を行脚して琵琶湖を渡る船中のこと、容貌魁偉で身の丈の図抜けた武士がのっており、盛んに剣術の自慢話をしていた。 「わしは多年の修行によって、いかなる天下の名人といえども恐るに足らぬだけの腕前となった」と、大言壮語している。
武士は得意顔で、船内を見回して、卜伝を見つけると「おん身も武芸修行者のようだが、どうだ少しは出来るかな」 と、ケンカを売ってきた。ト伝はしらん顔で「それがしも武芸を始め、修行は怠らぬが、御身ほどは参らぬ、ただ多年の修行によって、わずかに得るところは、勝つことを好まずして、負けぬ工夫をいたすことが肝要と思うばかりでござる」と答えた。
「何、負けぬ工夫じゃと、小癪な!、その剣法、流名は何と申すか!」
「されば無手勝流と申す」と卜伝。
「ナニ、無手勝流とな。しからば無手にて人に勝つことが出来ると申すのか」
「申すまでもござらぬ」
「イヤ、いったな、さらばいざ!一勝負つかまつろう。船頭!、早く船を向う岸に着けい」
「イヤ、さほどお急ぎになるならば、あの唐崎の離れ島にて勝負といこう。往来の妨げにもならず、好都合でござろう」
「おお、いいとも」 と、船頭に命じて船を離れ島に着けさせると、その前に武士は、ヒラリと島に飛び上って大刀を真向に振りかざし 「さア、来いッ」 と、勢い込んで身構えた。
卜伝は静かに両刀を船頭に渡し預けたのち、棒を取ってさて、崖に飛び上るのかと思いきや、グイと一突きその棒を突っ張って、船を島からさっと、離れるとともに 「船頭、早く船を漕げ」と、沖の方に漕ぎ出てしまった。
謀られたりと知った武士は、地団太踏んでんで怒り、「卑怯なり、返せ戻せ!」「卑怯者!、許さん」と、大声で絶叫すること久し。
卜伝は扇を開いて静かに仰ぎながらニコリともせず「これが我が無手勝流でござる」 と言ったという。
このエピソードを模したのが「燃えよドラゴン」のこの場面です。
ではまた👋
自分を表現すること
自己表現が重要だ。自分に満足している人間だけが孤立することができる。たいていの人は大衆に従い、他人の真似をするのである。
あなたはただ人の真似をするのではなく、自分が考えていることの重要性を伝える努力をしなければならない。
神秘的でもなく、ざっくばらんとして素朴であること。こうして本当の自分を率直に出せば、真の人間関係が築かれるのだ。
自己を「表現」していない時、人は自由ではない。すると人は葛藤を始め、その葛藤が整然とした行動パターンを生み出す。そしてまもなく、あるがままの現実に対応するのではなく、単なる反応として整然とした行動パターンを繰り返すようになる。
誠実に自分を表現して、自分に嘘をつかないこと。友よ、それを実行するとなると非常に難しい。
自己を表現すること、真の武術家は、それを自然に行動にだせるのだ。
生きる
生の意味について考えてみます。
人はどのようにしてそのような生を経験するのか。一瞬一瞬の経験を享受するためには、まず自意識の束縛から自らを解放しなくてはなりません。自意識からの解放、すなわちエゴを解き放つことにあるといいます。そして、代わりに、これ以上小さくできない「真の」自分そのものが現れるまで「自分」の表層を少しずつはぎ取る、厳格な自己診断のプロセスが必要とあります。
難しく聞こえますね。
でも実は、そんなに難しくないと私は思っています。
人間としてもっともっと単純になっていけばいい。自己を探究する(自分を見つめ直す)、と疑問が蓄積される。するとハッキリとそれは、単純性の問題だと理解されてくる。(そう理解しない方もいるでしょうが)人間が克服しなくてはいけないことは、意識、即ち自分自身についての意識、求めているものが何であれそれに関する認識、それを(何であれ)追求し、常に自問自答すること。これは何だ?本当なのか?本当でないのか。本気なのか?それを一度見つけ出せばいいんです。
意識と認識の違いは、何でしょうか。
意識とは、物事や対象に気が付き、気にかけているときに使う言葉です。
認識は、物事を知り、意味や本質、意義をはっきりと理解することです。
学業や仕事は別ですが、普段の生活、社会や世のあらましについて意識はしているが認識は、あまりされていない方が多いのではないでしょうか。
生は人生が我々の中を通っているときに存在する。生はその流れを邪魔されない。それは、生きている者が生を自覚していないからであり、この中に生が、生きている人生がある。言い換えれば、単に生が自分を流れていくようにする、すべての経験と共にということになるでしょうか。
生きる(人生)とは、事実を経験し、意識し認識すること、武術を習得することもまさにそれの繰り返しであります。
最後に著名なオランダ人神知学者ヨハネス·ヤコブス·ファン·デル·レゥ(1893~1934)の言葉
「生の意味は解決すべき問題ではなく、経験すべき事実である」
ではまた👋
鳥瞰図的に世の中を見る
「世の中変わってしまった」「行きにくい世の中だ」とSNSに書き込んだり、悩んでいる人がいます。
鳥瞰図的に世の中(街)を見てみると、何が変わった?ん~変わった所と言えば「新しいビルが立った」とか「新しい道ができてる」ぐらいでしょうか。
世の中には、表と裏があり、しいて言えば人間の造ったものには必ず表と裏があります。
山や海に行ってお日様の日を浴びれば眩しく暖かい、新緑は眼に優しく季節ごとに咲く花は、心を和ませてくれる。風が優しく頬を撫でてくれる。鳥が飛び、蝶がひらひらと目の前を通りすぎる。
自然は、何も変わってないことに気づく。
宇宙、地球そして自然から見ればちっぽけな存在の人間、その人間が生き、生かされるためのシステム。
今の世の中が大変そうにみえるのは人間が造りあげた社会システムを悪党が百鬼夜行し、意図的に変えようとしていること。
この悪党共に操作され、右往左往する人は精神性が低いと思わざるをえない。
精神性が高い人は、騙されない。
日本人は、元来精神性が高い民族、何故なら日本人は、自然を神として崇めてきたから。
ショッピングやアミューズメントパークに行くことで得られるのは、快楽であり幸福ではない。
不安な時や辛い時は、自然と一体になるといい真の幸福とは、身体が喜ぶことにある。
しかし、幸福感を一時的に得ても不安が解消されるわけでない。
それでも、前進しなければならない希望を持って、我々のお爺ちゃんお婆ちゃん、ご先祖さまがそうしてきたから…
だから今、私達がここにいる。
私の五感と身体が喜ぶから武術の修行を続ける。
それが詠春拳。
今という時をよく理解し生きるためには、昨日という時を全て捨てなければならない。新たな経験を獲得する度、ことごとく捨ててゆかねばならない─ありのままの現状をありのままに受け取れる気づきの状態を維持するのだ。
ブルース・リー
どうぞ皆さまお体をお大事にしてください。
無為
無為とは何か?文字的には「何も為さない」と表し、「無」は、~と違うとか、~ではないという意味であり、「為」は、活動、行動、努力、努める、強いる、働くといった意味があります。
よって「無為」とは、まったく何もしないという意味ではなく、不自然な行為や人工的作為はしない、ということです。
最も大切なのは、何があっても努めて行わないこと。
「無為」は、制御するものが心であり、精神、もしくは心の活動を意味している。
優れた武術家は、何の抵抗もなく心を解放して相手に反応し、しなやかな動きがとれる、忘我の境地に達し、相手の動きに合わせることを学ぶ。
思考をすると動きが乱れ、即座に撃ち込まれてしまう。
したがって、すべての動きは出そうと意図しないで出されなければならない。
そうした無意識で自然な動きは、我々はいつも目にしています。
木の葉が風に揺れるとき、木の葉はただ風に反応しているだけである。同じことが、水上のボートにもいえる。ボートは、波の微かな変調にも即座に反応する。
こうした間髪を入れない状態は、「無為」の極意。
これは、どちらか一方向に傾いたり、極端に走ったりしない高度な精神のバランスをもたらす。
感情的、精神的に偏らずバランスのとれた状態は、陰陽の基本的な法則です。
力に対抗せず、バネのように柔軟で対応はするが敵の強さに対抗することはない。相手のテクニックを自分のテクニックとし、時に応じて形を創る。
それが、私達が日々研鑽する詠春拳です。
変化を伴う変化は変化のない状態である
こんにちは。
この言葉は、私の好きな格言のひとつです。
Martial Artistとして究極の格言だと思えるからです。
ある達人の言葉を引用して説明したいと思います。
我々の体、内的環境は「変化のない変化」の状態にあることが正しい。この格言は、陰陽の原理、即ち明らかに対立するものの相互依存を、我々の肉体が生存していく必須条件として強調するのに役立つ。
*我々の身体を悪い菌や悪いウイルスによる攻撃や病気から初期の段階で守るのが自然免疫ですが、常在菌や常在ウイルスにより守られているのも事実ですね。
しかし、我々の体は、宇宙の盛衰を統制する自然法則を小規模に反映しているに過ぎず、我々は内部世界(身体の中の環境)のならわしを見ることなく外部世界(社会全体やそのことわり)を理解する事が可能となる。
内部世界のならわし(肉体の内的環境)を見るとき、変化が絶対的な力であることを観察せずにはいられない。血中気体、ホルモンレベル、電解質レベル、流量レベル、pHバランス血中糖度及びその他の複雑な要因は、常に変化していて、身体の内的バランスと存在を保持するため、人生の変遷に適応している。
そのような器官の動的な状況はさらに、感情、衝動、幸福感、及び精神的見通しについて絶えることのない変化の結果を生む。この内部変化の現象は、より大きな宇宙的外部の反映に過ぎない。
*ここで使われている宇宙とは、地球外の宇宙ではなくて時間・空間内に秩序をもって存在する「こと」や「もの」事を言っています。
万物は流転する。何も永続しない。
外的宇宙は、我々の身体を支配しているものと同じ法則によって活動している。
この一定した流動を観察する事によって、我々は我々を取り巻く世界の真の性質、即ちならわしをより良く理解する事ができるようになる。
我々はこの世界に置かれたのではなく、単にこの世界から育ってきたのである。
我々が自分たちの行動を分析するために立ち止まると「精神的停止」と呼ぶ否定的な状況が発生する。息をするたびに、呼吸器官や中枢神経器官の動きを考えて立ち止まる人はいないだろう。しかし、機械的な方法で慣れ親しんでいるより義務的なこと、例えば編み物やネクタイの結び方を分析しようと立ち止まる場合でさえ、我々は思考の迷路に迷い込み、その結果最も単純なことさえ行うことができなくなる。
「一つの腕の使用で頭が立ち止まらず、次から次へと道具を動かすという理由でのみ、すべての腕が究極の効率性を発揮する」
プロセスを考えることなく、関連しない体の部分を同時に動かすことが、どうしてできるのか?という問に達人の答えは、このようなプロセスは意識的な思考ではなく、自治的なプロセスによって支配されている、となるのである。
達人は、自然の摂理が君主制ではなく、民主制のプロセスにより類似していると考えた。
君主制では、明らかに一つの政治的焦点があり、その構成民に何をすべきかを述べる一つの中心的権威となっている。しかし、民主制では、生命器官と非常に類似したものが存在する。それは、自治的あるいは自律的なプロセスであらゆる種類の異なる部分が独立して発達し続け、調和によって共に機能する。
*君主制は、全体主義や共産主義(独裁国家)民主制は、民主主義や自由主義と考えると解りやすいかもしれません。
かなり難しい話になりました。私もこの事を理解して説明できるようになったのはここ数年だと認識しています。
最後にこの言葉で締めくくりたいと思います。
「偉大な道はどこでも流れている。すべての物は道から生まれ、道は物を生かす。道は創造物の中に流れ込むが、何も主張しない。無限の世界を育むが、世界にすがりつかない。すべての物と混じり合い、その中心に隠されるので、謙虚と呼ばれる。すべての物はその中に消えいき、それのみで持続するので、偉大と呼ばれる。偉大さに気づかない、従って真に偉大である。」
老子
ではまた👋✨
【修練の三段階】前編
武術も含めて、努力する事によって得られる知識や熟練は、三つの段階で構成され、これを「修練の三段階」と呼んでいたという話です。
第一段階は原始的なもので、闘い方について何も知らない白紙の状態である。これは、闘い方において、何が良くて何が悪いのかもわからずただ本能的にブロックしたり、殴ったりするだけの状態を指す。もちろん、それは科学的なものではないが、無辜なる自分自身の現れであり、その攻撃や防御は流動的である。即ち、自分の置かれた状況に慣れていない無知の段階である。その反応は、自然で正直なものと言える。しかし、必要な知識や調整がないために、ほとんどが不適切なものである。それでも、さらに鍛錬し集中する事によって、すぐ次の段階に入ることができる。
第二段階は、トレーニングで技を磨き上げる。ここでは、防御方法、攻撃方法、スタンス、呼吸法、考え方などが教え込まれる。明らかに闘いの科学が修得できるのだが、不幸にもありのままの自分や自由の感覚が失われ、自分自身の動きとはいえなくなってしまう。その時その時の判断や状況分析に心が釘づけとなりがちで、悪いことに「考え過ぎ」ともいえる現実離れしたものになる。達人が「技の段階」ともいっている修得の段階は、進歩に向かうために必要なステップである。どう動くかを教わることで、その人独自のアプローチに制約が生じるといった制限はあるものの、修練で身につけた反応と同様、それは必要悪であり、潜在意識の創造力に富んだ部分で、より直観的な知識をうまく修得し活かして行くために本当の根を植える段階でもある。だが、習っている当事者にはそれがわからない。こうするのがよいと教えられた通りにやることが得意になるだけである。
つづく
その意思は本当にあなたの意思ですか?
毎日見聞きするニュースは、我々の気持ちを暗くさせるものばかりです。
でも、日々の忙しい暮らしの中で人と人とのふれあいの中で気持ちが明るくなったり幸せになったりする事は、しょっちゅうあります。
「これって、本当かな?」疑問を持ち自分で調べることです。
その行動、それはあなたの意思ですか?
https://jimakudaio.com/yt?v=HIuhjV8CXhs&lang=ja
これから何かやろうとしている人への提言
これから何かをやろうと思っている人がこれを読んでいるなら 私はひとつアドバイスをしたい。
貴方が何かを身につけようとする時、それはダンスだろうと武術だろうと、必ず指導者を選択しなければならない。貴方が本気なら指導者は、自分にとって厳しいと思える指導者を選択しなければならない。何故なら優しい指導者は、貴方の事などどうでもいいからだ。貴方は最初心地よいかもしれないが、そういう指導者は、貴方が毎週練習に来てくれて毎月月謝を収め、練習生が増え懐が増えればそれでいいのだ。厳しい指導者は、本当に練習に来る人を上達させてあげたいと思い指導するから自然と厳しくなる。貴方がこの先生は、厳しいから辛いと思い始め教室から足がとおのき教室を辞めたとしたら、貴方の身につけたいという思いがたんなる興味本意に過ぎなかったのだと悟事だ。
何かを身につけるということは簡単ではない、それを身体にmemoryさせなければならない。人はスマホではない、アプリをインストールすればそれがやれる訳ではない。
この事をしっかりと認識して行動を起こしてもらいたいと、私は願います。
頑張ってください。